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縄文の記憶(三内丸山遺跡)異考録 嶋田孝和

東京ドーム約7個分の面積、縄文好きなら死ぬ前に一度は見ておけと言われるほど、日本最大級の縄文集落跡、現代人はその名を三内丸山遺跡(青森県青森市)と言い、語り継いでいる。
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私の趣向的に、あまりに整いすぎている所は苦手の為あって、今まで敬遠していたのであるが、どうしても現地の空気、風を感じ、建造物(復元)を触って体感したくなり、はじめて訪れてみる事にした。
(この博物館はよく出来ており、遺跡内をガイドさんの説明で歩く事もできる。縄文に興味のある方は是非、死ぬ前に一度、訪れて見て下さい。資料館もなかなかもの、撮影もOKで、縄文人のように心が広い、ガラスに入れられていない、縄文土器をみることは、他にはなかなかないと思います。)

この巨大な集落の発祥は今から約5500年前(土器などの炭素計算により)、現地に行ってみてまず感じた事は、現在の青森市の街中に森のように存在している事。(同じ地区に現在も人が住むと言う事は、昔も住みやすかった証である)海(魚貝類)に程近く、度々良い河川(魚)が流れ、少し丘になった森(栗・クルミ・獣)に囲まれた、最高級住宅地である。長きに渡り、この地に定住し繁栄していったのも頷ける場所である。
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5000年前あたりで、この集落は最高期を向かえ、約40-50棟の家が建ち(一棟で5人として)総人口は、200から250人ぐらい定住していたのであろう。その証として、上の写真のような集合集会場みたいな大きい建造物が存在した。(厳しい冬の間、ともに暮らしていたか、村の掟などを決める政治の場所だったのかもしれない)
この建物、自分には昔子供の頃、テレビでみた世界の秘境番組、確か、パプアニューギニアであったとおもうのだが、そっくり同じに見えてしまう、発掘した土面や別の機会で触れたい、日本の仮面も非常に類似点が多い、この地にたたずんだ時に、私の目の前に飛び込んできた、デジャビューである。

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250人は余裕で入れる、広々とした空間、地面より少し深く掘って、温度を安定させている(夏は涼しく、冬は暖かい!自然を知りコントロール出来た、素晴らしい民族である)
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ただ狩をし、食べて、寝て日々を暮らしていたのではなく、自然を神とし呪術的信仰から多くの芸術が生まれ優れた文明が存在していたのであろう。
その証が、今回私がこの地を訪れようと思った建築物。
それが、これである。
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縄文中期後半(約4500年前のもの)で、現代人の名称は、大型堀立柱建物と言う。
使用目的は現在も謎で、祭殿・物見櫓などなど、見解はさまざま。
柱穴が三個ずつ二列配置され、柱の内幅は4.2mで規則的にならび、木の根入れは腐らぬよう焼かれていて2.5mと深く、まわりはコンクリートのように硬く締まっていた(相当数の人が上っても問題ないしっかりした建造物)、高さは栗の木の胴回りから推測され、15mと天高く聳え建っていた(復元)。
使用目的として考えて最初に思うのは、物見櫓。だが、これ程の大きさは必要ない。
次に、祭殿。可能性としては、ありだが、縄文人は神を崇めて奉る風習があるので、神の怒りをかう、バベルの塔のことはしなかったのではないだろうか。鳥葬も、墓が存在しているので、ちがうであろう。
4500年前あたりは、この集落の人口は下降気味で、権力誇張シンボルでもないのではないか。
そうなると、あとは実用的に考えていくしかあるまい。ここからは私論になるが、体で心で感じるのは、これは古代の避難場所である!高さ15mと言う高さから、雪から身を守り、地殻変動などによる、津波避けではなかろうか!(住居エリアから裏手の海に一番遠い場所に建築されている)
もしかしたらここは、第二の縄文都市で、近年の調査でこの海の海底に、地殻変動により沈んだ遺跡が発見された事から、そちらが第一の縄文都市で、生き延びた人達が新天地を求め、今の場所に集落を造っていったと考える。この櫓は、その時の教訓なのではないのだろうか?昔も今もそう変化してはいない地形を考えると、逃げるなら、迷わず私はこの櫓に上るであろう。小高い丘と櫓で、高さは25m程にはなるからだ。
実証として、海底遺跡が発見され、日本地図を広げると、青森県は実に不思議な形を形成している。実際に海岸線を調査してみると、下北半島の仏ヶ浦あたりから、凄まじいばかりの陥没と隆起を繰り返してきたことが科学者でなくとも、大よそ検討がつく地形なのだ。
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下北半島・仏ヶ浦の奇岩群(人知のなせるものではない)
青森市にむかう海岸線においても奇岩奇石は存在している。津軽も、同様である。
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日本海側も凄い隆起が見てとれる(千畳敷海岸、海岸を少し離れても大きく段差上の地形が露出している。
この海岸線の地形を辿っていくと、白神山地の日本海側、雄島海岸・男鹿半島まで私の追いかけでは判明した、もしかしたら能登もそうで、日本海側が大きく隆起したのではあるまいかとも思う。

今回の東日本大地震において、こちらの日本海側の断層は、大きく揺れなかったが、大きな力はかかったと思われる。私の住む茨城県沖から千葉・東京静岡へ向けての断層もGが掛かったままであると一部の科学者の見解にもある。静岡といえば、富士山に通ずるフォッサマグマがある。なんとも危険な状態なのである。

小松左京原作「日本沈没」の昭和版ではなく、平成に制作された「日本沈没」のように断層の亀裂を破壊してGの力をなくすような事が出来ないのであれば、私が想像した縄文人のように、共存の道を選ぶべきであろうとも思う。現在日本は、急ピッチで現在の緊急津波避難のビルを指定したり、建造の計画を進めているらしい。
大自然のなすことは、人間にとって大きな事であっても、地球規模からみれば、小さい事である。

また、縄文に精通した、故岡本太郎氏が人類に啓発した「明日への神話」はまさに現代日本でおき始めている実話になりつつある、呪術に闌れと言う分けではないが、人類が手にした最大の進歩「火」とうまく折り合いをつけて根本の自然に近い所から生まれる炎と付き合うべきなのかもしれない。原子力は偶然の産物から人間が発見し創作してしまった炎であるからだ。4500年前あたりから、最大級の集落を誇った、丸山集落都市もだんだん人口の下降をみている。人が増えすぎた為の疫病、争い、規律の圧力、災害などいろいろ考えられるが、どの文明も巨大になるにつれて、崩壊がはじまりやすいものである。たくさんの人が分散して行ったと考えられている。遺跡には、より良い未来へ向かうための縄文の教訓が示されているのである。
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私がこの地の風に吹かれ、空気を吸い、建造物にふれた心の体感である。(私論)

追記
ここを離れて行った、縄文人はどこに行ったのだろうか?縄文後期には、栗・くるみの栽培・養殖・米の栽培などおこなわれるなどして、定住型になっていたが、民族の血としては、より良い場所を探して動く旅人の民族である。ある者は、北海道へ、アジアヘ、丸山遺跡のみだけではなく、日本各地の縄文人は、世界に旅立っていったのかもしれない。最後の写真の土面は目がアーモンドアイ、三年前に東京国立博物館にやって来た、島田教授が発掘した、シカン文明の黄金の仮面と非常に類似しているのだ。日本人はあまり大きく主張しないのだが、長崎県の福井洞窟からは隆起線文土器が発見、検査により1万3000年前のもと判明、世界で一番古い土器なのである。
by ipa_ibaraki | 2011-10-04 10:50 | 嶋田 孝和

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